統合する力・総合する力、そして発想する力【後編】 ~“データ活用”の7つのプロセス Vol.4~
“統合・総合”を行う際の3つポイント
1. 整理しない、分類しない
2. 部分的にみない、全部としてもみない(全体としてみる)
3. 客観的に考えない、主観的にも考えない、分別よく考えない、我執にとらわれない
前編、中編に続き、今回は、「3. 客観的に考えない、主観的にも考えない、分別よくしない、我執にとらわれない」について。
<目次>
3.客観的に考えない、主観的にも考えない、分別よくしない、我執にとらわれない
『バガボンド』に学ぶ、超越的観点で全体をひとつとしてみること
「天下無双……?」
「天下に双つと無い者……、そんなものはない、なぜなら――」
「すべてはひとつであるから」[1]
これは『バガボンド』の柳生石舟斎の言葉だが、「すべてはひとつであるから天下無双はない」というのは、「超越的観点で“全体”をひとつとしてみる」に他ならない。
一方、天下無双とは、客観的に他と比べて一番の人のことだが、これは、主と客・自と他を分離している“自己”中心的な考え方で、柳生石舟斎と対照的に描かれている伊藤一刀斎によく表されている*2。
「分別」という言葉がある。
仏教にとって分別とは、認識主体と認識対象を分け、認識主体を「我れ」として固執(我執)し、認識対象を「我がもの」として固執(我所執)することである。この分別によって、自己中心的な固執が生まれ、それによって苦悩が生まれる。 [2]
「分別」によって「我執」が生まれるとあるが、この「我執」は、武蔵を理から遠ざけた「我執の炎」[3]である。
そして、この「我執」を拭い去った武蔵は、
「この山のすべてのものに目を開き、すべての音に耳を澄ます、鼻を、口を、皮膚を、俺と山はひとつになる。心の中も山になる…、樹も、風も、水も、俺も、みんな同じ、ひとつのもの。」、「どう振るか、どう斬るかなんて、刀が教えてくれる」[4]
と「理」に至る*3。
これは、KJ法の根本精神である「己を空しくして、データをして語らしめる」や「扱うすべてのラベルの集合全体は、いわばひとつの世界であり、ひとつの全体をなす宇宙なのである。その世界全体の声を聞き届けた上で、最も志の近いラベル同士を集める」[5]に通ずる。
これを「明鏡止水」の境地[5]といい、また、小川政信先生は「虚心坦懐に」と表現され[6]、『バガボンド』では、
「ぬたあん」[3],[7]
という武蔵の言葉に象徴される。
この「ぬたあん」の状態とは、禅の言葉で言えば「無の状態」、柳生新陰流の「無形の位」[8]のことであろう。
「無形の位」にあるということは、先入観をもたないということ、または、分別心を離れた無私かつ無心の状態とも説明される*2が、「なにもかんがえていないだけ、心を無にするとは違う」ということに注意したい。
そして、「ぬたあん」の状態は
「ゆるくはあるが、軽くはないのだ」[4]
ということも忘れてはならない。
「己を空しくして、データをして語らしめる」
「無形の位」について、先入観をもつと、自分勝手で独善的になってしまうので、相手のことを正確に捉えられないと説明される[8]。やはり、それは「己を空しくして、データをして語らしめる」にも同じことが言えると思うが、そうでなければ、「人には『解決策の次元や、解決策そのものを自分でも気づかずに想定してから、ものを見る』ということを始終行っていることである。このため、見たいものしか見えなくなり、しばしば本質的な鍵を見落としてしまう。」[6]という問題に陥ってしまう。
また、デザイン思考においても、ユーザーエクスペリエンス(UX)をデザインする際の大切なポイントとして、「俺様スペシャル」を押し付けない、「全部盛り」は失敗のもと、と指摘されている[9]。
これは、まず「俺様…」や「全部盛り」をしようとしたのでは決してなく、顧客理解を深めようと取り組んだにも関わらず、図らずとも結果的にそうなってしまうことがあるということを肝に銘じておく必要がある。
そして、どうしてそのように陥ってしまうのかを理解し、それを避けるためにはどうすればいいかを知ることが実践する上では重要になるが、このデザイン思考や経験のデザインの問題に対しても、ポイントは同じである。「“全部”盛り」と「“全体”をひとつとしてみる」は違うということは、これまで書いてきた通りで、なので「俺様…」も含めて、無心の状態で、データをして語らしめれば、このような失敗はしないはずだ。
“統合・総合”のまとめ
“統合・総合”を行う際の3つのポイントについて紹介した。
“統合・総合”し“発想”すること、「“全体”をひとつとしてみる」ことについて、体系立てられていて、方法論まで落とし込まれているのはKJ法以外に私は知らない。なお、KJ法を分類する方法と思っている人が多いが、それは明らかに間違いである。KJ法は9割以上、誤って運用されているとの指摘もあるが、“統合・総合”のためには、正則にKJ法を行うことが重要になるので、『発想法―創造性開発のために』(川喜田二郎著)や「KJ法の作法の研究」(三村修著)を読み、この世界に浸りきって、まずは実践してほしい。
しかし、Amazonレビューに多く寄せられているように、この内容(「己を空しくして、データをして語らしめる」や「扱うすべてのラベルの集合全体は、いわばひとつの世界であり、ひとつの全体をなす宇宙なのである。その世界全体の声を聞き届けた上で、最も志の近いラベル同士を集める」[5]など)を理解し実践することは容易ではないと思うので、ここでは、ドラマ『SPEC』当麻紗綾の推理スタイルと『バガボンド』宮本武蔵の「ぬたあん」のイメージを参考にすることをおすすめした。少しでも参考になれば幸いである。
そして“施策企画立案・実行”へ
『兵法三十五箇条』(宮本武蔵著)でも、相手を対象化して物理的に正確に捉える「見の目」と、場所の中において超越的に捉える「観の目」の二種類の目の必要性が説かれているとのことだが[8]、データ活用のプロセスでいうと“集計・分析”から“要約”のプロセスが「見の目」、“統合・総合”のプロセスが「観の目」にあたるだろう。
そして、最後のプロセスの“施策企画立案・実行”だが、データ活用のプロセスとしては“統合・総合”と分けているが、3つのポイントを意識して、“統合・総合”を行えば、自ずと“施策企画立案”は“発想”されてくる。そうすれば、あとは“実行”するのみになる。
“施策企画立案”に関して、100%必ず成功するマーケティング施策などはありえない。しかし、明らかに筋が悪い企画というのはある。考えが偏っている、つまり、ある事実がわかっているのに、それを無視している企画のことだ。よい企画というのは、“全体”と調和し、全体観とぴったりとくるものである。
繰り返すが、“全体”をみる、“全体”と調和するように、というのは簡単なことではない。“統合・総合”し、企画を“発想”するのは最難関のプロセスになる。行き詰りそうになった時こそ、「ぬたあん」を思い出し、自己を解き放ち、「データをして語らしめる」ことが重要になる。
<補足>
*1. ここでいう客観的とは、「主観または主体に関係なく、独立して存在するさま[10]」の意
*2. 『生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理』[3]にも宮本武蔵と柳生新陰流との関係は書かれている。しかし、史実として、宮本武蔵がどうであったかはここでは問題ではない。歴史上の宮本武蔵ではなく、『バガボンド』の宮本武蔵に焦点を当てる。
<参考文献>
[1] 『バガボンド』第31巻.
[2] 生活の中の仏教用語 – [159], 大谷大学Webサイト.
[3] 『バガボンド』第32巻.
[4] 『バガボンド』第24巻.
[5] 『KJ法―渾沌をして語らしめる』川喜田二郎, 中央公論社, 1986.
[6] 『フロンティア突破の経営力』小川政信, プレジデント社, 2009.
[7] 『バガボンド』第27巻.
[8] 『生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理』清水博, 中公新書1333, 1996.
[9] ユーザーに共感して経験をデザインしていく, 佐々木千穂, Code for Namie アイデアソン@東京 ミニセミナー,2014.
[10] デジタル大辞泉
“データ活用”の7つのプロセスシリーズ
- 戦略とは ~“データ活用”の7つのプロセスについて考えるために~
- Vo.1 分析とは何か?
- Vo.2 “データ・ビジュアライゼーション”で思考する ―情報に溺れず“考える”ためのスキルとは?
- Vo.3 「数字」から「言葉」を紡ぎだす
- Vo.4 統合する力・総合する力、そして発想する力【前編】
- 〃 統合する力・総合する力、そして発想する力【中編】
- 〃 統合する力・総合する力、そして発想する力【後編】(本記事です)
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